われらの!ひろお自慢 <文化財としての広尾小学校>
所在地 渋谷区東三丁目3番3号(昭和7年当時の写真)
○本校は大正5年4月1日に開校した。[児童1152名、教員23名/20学級]
当初は東京府豊多郡渋谷町下通り3丁目にあったが、昭和3年3月3日の火災により全校が消失してしまったため、
同年7月に仮校舎を建設するとともに、昭和5年11月2日より上智町6番地に新校舎の建設にとりかかり、昭和7年4月29日に移転した。
これが現在地に立つ校舎である。
<高台に立つRC造3階建で、関東大震災後の小学校復興事業の末期の建設となる。
消防署が同居したことから、火の見櫓としての塔屋を備えている。設計は東京府の市ノ瀬仁重朗氏、施工は佐藤平治氏が担当した。>
○昭和39年の東京オリンピックの後、補助5号線(駒沢通り)の伸延工事が行われ、校地が縮小された。
○昭和41年7月9日、創立50周年記念式典を挙行した。これに合わせてプールと自然観察園が新設された。
○昭和49年9月30日、講堂を取り壊した跡に体育館を建築した。この体育館は傾斜地にあるため、地下2階部分が給食室と幼稚園になっている。
また地下1階部分は、現在図書室、パソコン室、ランチルーム、備蓄倉庫などとして活用している。
○昭和63年8月に校舎外壁の全面改装工事、平成元年10月より校舎内装工事を行った。
○平成2年3月、東京都歴史的建造物に選定され、景観意匠保存の対象となった。そして、正門脇に説明プレートが取り付けられた。
○平成12年2月18日、文化財保護審議会が本校校舎を登録有形文化財にするよう答申し、同年5月17日に国の有形文化財となった。
特色ある学校として東京に名前をひびかせた広尾小学校
その校舎が平成8年に広尾小学校は東京都から歴史的建造物として指定された。
そして平成12年、同指定の解除と同時に、国の有形登録文化財として指定された。
東京都で設置した説明プレートをもとに、2003年に渋谷区教育委員会が製作したものです。
東京都生活文化局資料を要約すると、指定の理由は以下の通りである。
現在渋谷区となっているこの一帯は、江戸時代はのどかな風景であった。「名所江戸百景」の一つとして「広尾の川」を広重が描いている。
明治・大正と時を経て東京都豊多摩郡渋谷町となった頃は、地域の人口があふれ、渋谷町は人口急増地帯となり、
大正4年には広尾小を含め3校が建設され、町の財政は火の車であった。
広尾小学校は大正5年の創立で開校式典を挙行した5月21日を開校記念日としている。
昭和3年3月3日、明治通りにあった校舎は不審火のために全焼した。
そこで昭和7年、関東大震災後の復興建築のひとつとして、耐震・耐火の鉄筋コンクリート造りの校舎が上智の丘に建設された。
この校舎には次のような特徴が認められる。
(1)インターナショナル・スタイル(国際建築様式)で機能主義的な校舎であること。
(2)表現主義デザインの施された校舎であること。
(3)コの字型の校舎配置の東北隅部に高い塔をあげていること。この塔は渋谷消防署上智出張所の望楼である
(昭和22年まで使用された)。この望楼と玄関まわりに装飾がある。
この校舎建て替えの際の校長は、第3代の赤崎等校長であった。
赤崎校長は、鹿児島師範附属小で県下に有名であったが、大正10年12月から昭和20年まで、24年6か月の長きにわたって広尾小の経営にあたった。
当時の卒業生の語るところによると、正規の授業のあと、児童全員が教室・廊下・階段・講堂・校庭を1時間半位毎日掃除をやる。
いったん家へ夕食に帰り、また学校に来て夜9時、遅いときは11時頃まで補習授業をした。「おそうじ学校」「ちょうちん学校」と広尾小のことを世間で言ったそうである。
校舎の北側に道路一つ隔てて、旧沼田藩主・土岐子爵の邸があった。
南面に校舎が建つのに、土岐子爵は率先して付近の住民とともに校舎建設に協力・援助を惜しまなかった。その後何かと広尾小のために尽くされた。
このため、昭和50年代初頭まで、広尾小の公式行事には、渋谷区長より上座に土岐氏の席が設けられていた。
昭和50年頃になっても、赤崎校長のとなえた「広尾魂」は脈々と生き続け、
知力・体力・気力・協力におきかえ、教育充実のためのモットーとする気概が学校に残っていた。
この頃の学校規模は、22学級、心障学級2,児童766人であった。
現在、学校の周辺は常陸宮邸、國學院大學、実践女子学園、常磐松小、広尾中、広尾高校、
渋谷図書館、温故学会(塙保己一の「群書類従」版木=国の重要無形文化財=を保管している)がある。
筆者:渋谷区立広尾小学校 第10代校長 松本 武
<現在の火の見櫓>※校舎屋上から撮影